エンジニアのソフトウェア的愛情

または私は如何にして心配するのを止めてプログラムを・愛する・ようになったか

品質

少し前のことですが、下記のエントリを拝見して品質について考えていました。ようやく少しまとまってきました。

品質に対する意識の違い - Basic


おおむね、というか、ほとんど同意見。
ただ、品質のとらえ方が違うかな、と思いました。


以前にも紹介しましたが、デ・マルコの著作の中で「過去最高のソフトウェア製品」と題してAdobe Photoshopの品質をのべる下りがあります。

  1. ユニークである。この製品が最初に発売された当時は、まったく類のない製品だった。
  2. 写真加工の概念を根底から覆した。
  3. 写真に対する考え方まで変えた(ヘレンはきれいに写っているが、マリーの写りがひどい写真も、捨てる必要はない。マリーの写りがよい写真と合成すればよいのだ)。
  4. 以前には想像もつかなかった事をできるようになった。
  5. 十分に工夫されている。特に、チャンネル機能はほぼ無限に応用がきき、その用途はいくらでも広がる。
  6. 完全に実装されている。たとえば、「元に戻す」機能を使えば、きわめて複雑な操作でも元に戻せる。
  7. 頭に入りやすいヒューマン・インターフェースを使っている。ほとんどマニュアルを使う必要もない。
  8. サードパーティーのアドオン・メーカー向けにインターフェースを提供している点で画期的である。
  9. きわめて安定している。

わたしがこのソフトを選んだ理由のうちの最初の9つを、ほぼ重要度の順に並べてみた。これら9項目のうち、欠陥がないことと関係しているのは最後の一つだけである。これが肝心な点だ。製品の品質は、欠陥の有無とはほとんど関係がない。もちろん、基本的にはすぐれた製品が、欠陥によって台無しになることはある(どの製品であれ、インターネット・ブラウザを考えてみるとよい)。しかし、本当の品質を決めるには、欠陥がまったくないかどうかより、ユーザのために何をするか、ユーザをどのように変えるかという問題のほうがはるかに重要である。


ゆとりの法則 ? 誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解 P.126


欠陥の有無と品質のよしあしが無関係とは言わないけれども、「欠陥がない」ことが「品質がよい」を意味するわけではない、とう主張です。


この冬のオブジェクト倶楽部イベントでの中埜博さんのワークショップの主題がクォリティ=品質でした。このワークショップはソフトウェアの内容ではなかったので、これとそれとを比較するのは強引かもしれませんが、このワークショップの中での中埜さんの主張の一つが、ひとはクオリティのよしあしを見分けることができる、というものでした。欠陥がどうこうでなく、ただよいものとよくないものの区別がつく、というもの。


えーと。いまだに自分自身で消化しきれていないんですが。
少なくとも品質というのは、欠陥の有無といった話とは違うレベルの、使い手にとってよいものかどうかという問題なんだと思います。


だから、わたしの解釈としては。いまの国内メーカ製の携帯電話は、「機能過多という低品質」な面をかかえているんじゃないかと思っています。



先のエントリで気になったことがもう一つありました。「iPhoneもまだまだ品質が低い」とおっしゃったお相手の方。この方のコメントをみて、最近読んだ(で、まだ読みかけの)本の一節を思い出しました。

三人の石切り工の話がある。何をしているかを聞かれて、それぞれが「暮らしを立てている」「最高の石切りの仕事をしている」「教会を建てている」と答えた。第三の男こそマネジャーである。
第一の男は、しごとで何を得ようとしているかを知っており、事実それを得ている。一日の報酬に対して一日の仕事をする。だがマネジャーではない。将来もマネジャーにはなれない。
問題は第二の男である。熟練した技能は不可欠である。組織は最高の技能を要求しなければ二流の存在になる。しかし専門家は、単に石を磨き脚注を集めているにすぎなくとも、大きなことをしていると錯覚することがある。技能の重要性は強調しなければならないが、それは組織全体のニーズとの関連においてでなければならない。


マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則 P.137


メーカやそこで働くエンジニア(もちろんわたしも含めて)、この第二の男になっていやしないか、そんな不安がよぎります。


ゆとりの法則 ? 誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解

ゆとりの法則 ? 誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則