エンジニアのソフトウェア的愛情

または私は如何にして心配するのを止めてプログラムを・愛する・ようになったか

言語と言語の距離

どう抜く?にエントリしています。主にC++Haskellで書いたコードを投稿しているんですが、ふと気がついたことが。
使い慣れているC++で書いてから、次にHaskellで書いてみることが多いんですが、このときC++からHaskellへ書き直しているわけではないんですよね。もっと曖昧模糊としたなにかからC++へ、Haskellへ書き下しているというのが近い感じ。日本語とも違う言語化されていない何か。そこを言語へ翻訳している訳です。
結果的には、C++のコードとHaskellのコードは違うアプローチで実現していることが少なくないんですが、考えた当人としてみると使う言語でアイデアを切り替えた感覚がない。


これってなんだろう。無意識に思考を切り替えているんだろうか。それとも、曖昧模糊とした言語化されない何かは表現の差異を超えた普遍的なものなんだろうか。


…気が向いたらもう少し深い考察書き足します。