携帯電話の端末が故障しました、のその後。
現象が出るようになって1ヶ月余り。とうとうほとんど表示が出なくなってしまいました。だましだまし使おうと思っていたのだけれど、さすがに観念。機種変更しました。もちろんiPhone。
機種変更の手続きがおわり、ショップをあとにして、最初に触れたときの率直な感想。
「これ。こっち。これだよ、ほしかったものは」
わたしが携帯電話…というか携帯端末にもとめていたのはこっちだったんだ、とあらためて感じました。「次のモデルが出たら買おう」とか軟弱なこと考えずに、はやく乗り換えればよかったとちょっとだけ後悔も感じたり。
で、iPhoneに乗り換えたことで思ったこといくつか。
日本国内にあって、スマートフォンだということの意味
わたしが考えていた、従来の携帯電話(「ガラパゴスケータイ」とか「ガラケー」とか呼ばれたりすることもありますけど、ここではあえてこの言葉で)とスマートフォンと呼ばれる携帯電話のちがいは、キャリア固有のモバイルサイトのサービスが受けられるか否かぐらいで、あとは個々の端末の差異の範囲内という感じでした。機能という切り口で言えば、いまやその数や種類や内容からいって従来の携帯電話もいまでは(定義はともかく実質的には)「スマートフォン――賢い電話」の範疇に入るんじゃないかという思いでいたわけです。個人的には。だから、iPhoneが端末という意味では特別という印象は持っていませんでした。
変更手続きをしていて、その認識改めました。
iPhoneの契約を了承するまでの説明の長さ。制限やら条件やら、保証はAppleに、とか。あらためてここで説明されなくてもいい話じゃないかと思った一方で、従来の携帯電話ではこういった煩わしいことをそれほど気にかけなくても使えるようにされていたんだなと、思った次第。従来の携帯電話と携帯電話のユーザはこんなにもキャリアに依存してたんだ、と。
環境が安定している分には、背後にあるめんどくさいことを意識しなくても、どこでもいつでもネットワークを使うことができるとというメリットを受けることができるわけで、携帯電話でのネットワークの利用が日本国内でこれだけ普及した理由のひとつだと思います。
ほかにも、有料のサービスを提供する側からしても、利用者の識別と課金という面倒な部分(たぶん一番面倒な部分)をキャリアにまかせることで、提供したいサービスに集中できるというのもあると思う。ここは想像ですけど。
その一方で。たとえば、今回のわたしの事例のように、故障したときの対応がメーカーや機種に関係なく一律になってしまったりするのは、デメリットかと。メリットと比較したらずっとずっと小さいものですが。
メーカーとキャリアとユーザとが、比較的安定した環境で互いに依存して成長してきたことで、いまのだれもが携帯電話を簡単に使えるという状況を生み出してきたわけで、それはほめていいことなのだと思う。ただ過度に適応しすぎた。過度に適応すると適応した範囲内では強力だけど、それが変化したときにもろい。しかも互いに依存しているから、一方だけが変化に適応するということも難しい。
「ガラパゴスケータイ」という言葉はいろいろ誤解を与える言葉なので好きではないんですが、こんなふうに考えるとこれもまた言い得て妙なのかも*1。
自分で環境を整える、という考えは少数派なのかもしれない
PCやMacを普段から必需品として使っている人からすれば、使いやすくなるように自分で官許を整えるというのは普通だと思います。PCやMacに限らず、どんな道具でも普段使いするものは自分の使いやすいようにしておくものだと思います。
従来の携帯電話ってそれに該当しないんじゃないかという感じが。
だから、あれだけ機能過多になるのかな、と。全部入れときましたから、あとはそこから使いたいものを選んで使ってください、という雰囲気。
そもそも、わざわざ自分で環境を整えないとならないということがわずらわしい、と思う人が少なくなくて当然だとは思うのですが、わたしが想像しているよりずっと多くの人がそうなのかもしれない。
そう考えると。App Storeは、自分で環境を整えるということに対するハードルを下げるために用意されたものなのかも。審査があるのもさもありなん、という気になる。
*1:とはいえ、もっと適切な例え方があるとおもうんですけどねぇ。