エンジニアのソフトウェア的愛情

または私は如何にして心配するのを止めてプログラムを・愛する・ようになったか

属人性と代替可能性について

舞台版『千年女優』の福岡公演が無事終了したようです。

2月の東京公演を見たあとにふと「ソフトウェア的愛情」的ななにかを思いついてそのまま忘れていいたのですが、たまたま思い出したので、そのことをちょっと記録。
あくまでわたしの思い付きであって検証はもちろん、どんな反証がありえるかも考慮していないので、そんなことを考えたのか、程度に思ってください。

あ、あとネタバレ含みます。


舞台版『千年女優』では配役が次々と入れ替わっていく、名付けて「入れ子キャスティング」という仕掛けがあります。その中でも極め付きが、ストーリーの中盤で配役が破綻して観客に配役を決めてもらって仕切り直す、という信じられないような演出です。5人の役者さん全員がそこから始まるシーンのすべての役を演じることができるようになっている(わたしが見た舞台ではボーナスで、前渕さなえさんが一人五役を演じる「さなえ全部盛り」を披露してくださいました。演出の末満さんの無茶ぶりによって)。

属人性の排除はやっぱり無理だと思う

単純に個々人の技術や能力はばらつきがあって、得意なものあり、不得意なものあり、そもそも表現の違いあり。全員がすべての役を演じることができて、どの組み合わせでも素晴らしい演技を見せてくれるわけですが、この組み合わせとその組み合わせでは、やっぱり違う。

ソフトウェアの開発でも、同じように高い技術レベルを持つ人でも、人が変わればできあがるものはやっぱり違う、はず。要求される仕様はもちろん同じように満たされるはずですし、もしかしたらクライアントから見たら違いはわからないかもしれない。それでもプロダクトは人に依存すると思う。
「依存する」というのは、その人でないと理解できないとか保守できないという意味ではなく、他の人で泣くその人の持っている技術が集約されたものになる。同じ役を演じても演じ手によってその役の色が変わるように。

人の代替は可能だと思う、同じぐらい能力と理解を持つ人のあいだであれば

属人性と並んで話題なるものの一つに代替可能性――開発に関わっている人を(簡単に)入れかられるものなのか、という点について。
もう上に書きましたが。同じぐらい能力と理解を持つ人のあいだであれば可能なんだろうと。それ全然解決になってないヨ、と言われそうです。半分、そのとおりだと思います。でも、そういった人たちをそろえる、理解を共有する、しかないのかなと。
ソフトウェア開発は、それまでに存在しないものを存在するようにするという面が目立ちますけれど、やはりソフトウェアの寿命を見据えて、運用コストまで含めて考えないといけないわけで。目先の「開発費」に惑わされず、そういった状況を構築しないといけないんじゃないかな、と。

チケット確保しました

そんなわけで。
5月11日の段取りがつき。現時点で最後の公演となる凱旋公演のチケットを確保するなど。問題は、翌日仕事なんだけどどうするかまだ考えてないところ。
この福岡公演では、東京公演からさらに手を加えているといううわさがちらほら。
2009年の初演時のDVDを見て思ったこと。優劣ではないのですが、今回の再演の方がより難しいことに挑戦していたんだ、ということ。初演の舞台も素晴らしいんですが、再演ではさらにディテールを作り込んでいるとかネタを仕込んでいるとか。この人たちはどれだけ上を目指すんだろう、と。で今回の福岡公演でのうわさ。

より上へ上へ、より前へ前へ、という欲求は役者もエンジニアも同じなのかも、と思ってみたり。

ますます持って、凱旋公演を見逃すわけにはいかなくなってしまった。

撤収時間の関係で「エア『千年女優』」(劇中歌/テーマソングにのせてのダンスパフォーマンス)が演じられなくなったというのは残念ですが、最後の舞台版『千年女優』は何を見せてくれるのか(「千年女優」といえば、最後に「ガーン」とヤラれるのが常なのでw)今から楽しみです。